世界から見た日本

タイトルは物々しいが、言いたいことはそんな大したことではない。


なんだかんだいって地球は広いので、世界中のどこかで常に事件は起きている。平和を如何に叫ぼうとも、結局どこかで常に戦争をしているし、事件も事故も数限りなく発生している。そしてもちろん、天災も常にどこかで起きている。


そして、それら起きた事件の様子は、映像となり、世界中のメディアが私たちに届けてくれる。だから、アメリカでどこかの州のどこかの村が、ハリケーンでやられてしまったという映像だとか、大雨でセーヌ川が氾濫し、パリが水没している様子の映像だとか。自分はお茶の間でのんびりお茶を飲んでいるのだとしても、世界のどこかで起きている大変な状況というものを時間差無く目にすることが出来る。9.11のテロ事件、2機目が突っ込んだあの瞬間を、リアルタイムで見る事が出来たのもそのおかげだ。今正に、海の向こうのどこかの土地が大変なんだと、究極のシーンを切り取って、メディアが運んでくる。


しかし、映像と言うのはその事件から切り取られたシーンの凄さこそ伝えるが、その事件が起きた現場(アメリカであれパリであれ、その他の場所であれ)の臨場感、切迫感、緊張感などまでは運んでこないし、ゆえにその事件を取り囲む空気感を体感する事は出来ない。

故に、こちらとしては申し訳ないとは思いつつ、建造物の破壊被害とか、死傷者の人数とか、そういったもので事件の大きさを測るようについついなってしまっている。と、同時に「切り取られたシーン」しか見ないがゆえに、それが果たしてその国の、その地域の全域に渡るような広大な被害であるのか、それとも局地的なものであるのかという判断も出来ない。

その結果、たとえばパレスチナでは常に国中が騒乱しているようなイメージが有るし(実際は一部だろう)、ハリケーンアメリカのどこかの州全体を襲ったように思えるし、ヨーロッパのどこかの国は、国全土が水没したかのように思えたりする。


そして、その感覚で「大変だなあ.......」と遠い向こうへ思いを馳せる。


しかし、遠い向こうに住む人たちだって所詮は同じ人間である。こちらがそのような思いをもって映像を見つめているという事は、向こうに住む人たちもまた、こちらの映像を同じような感覚を持って見つめているはずなのだ。



さて、ここで最近の日本だ。



浅間山は爆発している。台風はもはや幾つ来たのかわからないぐらいになっている。ただ、ほぼ毎週来たのだけはわかる。とどめのように、中越の震度6を連発する地震だ。ついでに言えば、実はまた台風がきている。



一体、世界からすれば日本は今どのように見えているのだろうかと、考えずにはいられない。


最初のうちは「アサマヤマが噴火、灰が降っていますだって、へえ」ぐらいだっただろう。被害も少なかった。しかし、台風が来て次から次に浸水しているシーンが世界に放映される。
「その映像ならこの間見たよ」
と突っ込もうものなら
「いや、それは前の台風で、今回はまた別のやつの被害なんだよ」
と説明され、というのがほぼ毎週繰り返される。

毎週だよ。


だってまた来てるでしょ台風。



沈みすぎだろ、ゆれすぎだろ日本、と思われてはいないか。



世界から見れば
「それでもあの小さい国日本がまだあるのは何故なのか」
と、思い始めてはいないだろうか?



例え被害がどんなに甚大でも、ある程度は局地的なもので、日本全土がやられているわけではない。が、日本の私が海外のニュースを、ついつい大げさに捕らえてしまうように、海外の人たちは「ひっきりなしに日本全土が災害にやられている」ような印象をもっているのではないだろうか。

灰が降りまくって、豪雨強風で家屋破損浸水しまくって、地震にいたってはものすごい破壊力をふりまかれた日本。どう考えても、海外から見ればもう、日本という国は壊滅しているに違いないとしか思えないのではないか?


そして「その割にそれでもめげない日本」にどんな思いをもっているのだろうかと、ふと考えずにはいられないのだ。



いやはや、それにしても本当に、今年は天変地異が多い。とりあえずやるべき事は..........サバイバル能力を鍛える事か(笑)?