表参道ヒルズを巡る、地元民の、多分エゴ(笑)

表参道の同潤会アパートが再開発の為取り壊され、表参道ヒルズへと変貌を遂げるべく工事が始まって久しい。その同潤会アパートの裏には、神宮前小学校という渋谷区一校庭の小さな、公立の小学校がある。そしてそこは、私の母校である。


私が神宮前小学校に通っていた時から、同潤会アパートの再開発は噂されていた。なにせ、老朽化が激しく地震などが着たらひとたまりも無いであろう事は一目瞭然だったからである。普通は、どの学校も避難訓練では「地震が来たら校庭へ」なのに「地震が来たら校庭、だけどできるだけアパート側からは離れて校舎側のほうに」という条件付避難訓練なのだから。


だから、同潤会アパートがついに壊されると決定した時も「ついに来たか」という思いの方が先行した。あの景観がなくなってしまう、と言うノスタルジックな思いはもちろんありつつも、あの建物の危険性を実感として知るが故に(実際住んでいる同級生もいたしね)、保存だ何だと騒ぎ立てる気は毛頭起きなかったのが事実だ。むしろ、地域住民ではない人たちのほうが、あの景観に思い入れを抱いていたのではないかと何となく思えてならない。


それはまるで、地域住民よりも自然保護団体のほうが道路やダムの工事に反対するような、まあ其処まで大層ではないけれど似たような雰囲気を感じないでもない。





まあ、それはいい。


自分だって同潤会アパートの景観がなくなるのを、全く寂しくないといえば嘘になるのだから。ただ「表参道ヒルズ」という名前だけはどうにかならんのかと思えてならないけれどもね。そもそもなんでヒルズなんだと。坂じゃねーぞ、通りなんだぞとかね。むしろ、ネーミングライツを販売して「Yahoo!ガーデン」とか「ライブドアスクエア」とかにしてもらった方が、いっそ清々しい位だ。諦める決心がつく(笑)。


でも、もはやこれも今更どうでもいい。多分、いや、個人的願望では有るが、たった一つの複合施設表参道ヒルズよりも、表参道を囲むように広がる神宮前と青山の町並みの方がパワーがあると信じたい。表参道ヒルズが出来ようが出来まいが、街はさして変わらないであろうと思いたい。だから、表参道ヒルズが出来ても出来なくても、かの地は「表参道」と地名で言われる事が圧倒的に多いはずだと願いたい。決して、表参道ヒルズが街全体を象徴するような名称にはならないと、そうで有ってほしいとただひたすらに..........いや間違いなくそうなんだと自信をもって言い切りたい。


まあ絶対「オモヒル」とか略されたら普通にキレるけど(笑)?




と、ここまでが前段。


実は、表参道ヒルズ建設に当たって地域住民は施工主側とすったもんだした経緯がある。それは、我が母校神宮前小学校の処遇についてである。


表参道ヒルズは、かの有名な建築家安藤忠雄氏が計画している施設である。当初安藤氏の計画の中では、表参道ヒルズという総合施設の及ぶ範囲が神宮前小学校のある土地まで広がっていた。つまり、小学校まで中に内包した複合施設計画だったのである。それは、既存の町並みとは調和しつつも、商業施設と住居施設と文教施設が一体化した、近未来型の街づくりともいえるもので、安藤氏らしいというか、何か新しい時代の日本の町というのを想像させるものだった。可能な限りの緑化がうたわれ、緑溢れる素晴らしい環境がイメージされた。



が、それが実現されるためには、一時的にでも小学校は引越しが余技なくされる。小学校の周り一帯が、工事現場となり危険が増す。



そして地域住民の猛反対が起きたのである。「学びの場であり成長の場である小学校を、商業施設に巻き込むとは何事であるか」との論理である。地域住民と施工側との話し合いは延々と続き、結局の所小学校の土地は計画から外された。地域住民は「勝った」と思ったが、同時に「安藤忠雄ファン」や「建築ファン」や「自分は文化やアートを理解できる人間だと誇りを持っている人」達からは嘲笑されるということにもなった。まあ、彼らの思ったのはぶっちゃけこんなところだ。





「あんな素晴らしい安藤忠雄の総合施設のよさを理解できずに、一時的感情でヒステリックに反対するなんて、

 なんて民度の低い奴らだろう。むしろ調和が壊れるじゃないか。ああ、もったいない。」





さて、私自身は安藤忠雄氏という建築家が好きであるし、表参道ヒルズのそもそもの計画、つまり神宮前小学校を巻き込んだ形である計画単品に対しては、面白いし、やって見る価値があったかもしれないと思っている。あのまま住民側が勝利せずに、そのまま無理にでも計画が進められていたら、神宮前はどんな街になっていくのだろうかと想像を馳せる事もある。都心の中ではめずらしく緑に溢れる地域において、都市の新しい形が世界に向けて発信できたかもしれないと思っている。そしてそれは、想像するにとても楽しそうだ。そう、思う。





が。
私は、反対したと思う。


実際の所一連の騒ぎを聞いたのは終結してからだ。だから、反対運動やら話し合いやらに私は直接参加していない。そして、話し合いや反対運動の後半は「タダの感情論ともいえるヒステリーな反対運動の様相を呈していた」との話も聞いてはいる。それを知れば「近未来的新しい都市のあり方の想像を提案する大建築家様」と「ただ闇雲にヒステリックに反対しか言わないわけのわからない住民達」と評されても仕方が無いと感じる。


が、私はそれでも、反対したと思う。








計画では、神宮前小学校の校庭は地面から離れる事になっていた。限られた土地を最大活用する為に「校庭は屋上へ」。




そうなのだ。たとえ頭で、どんなに素晴らしい計画であると認識しようとも、どんなに緑化をうたおうとも、自分の母校が、つまりは自分の後輩たちの校庭が、地面と接していないのは嫌なのだ。昔何かのアニメで主人公が「人は土から離れて生きてはいけないのよ」と叫んでいたが、その通りなのだ。都会に住んでいれば住んでいるほど「地面に接している事の重要さ」を感じている。ましてや、明治神宮、代々木公園、外苑、新宿御苑、皇居など、都会にしては緑溢れる地域ながら、渋谷新宿と大都会まで歩いていける地域の住民である条件が、都市の危うさと緑や土や水の大切さが実感を増させているといっても過言ではない。神宮前の住民はただの都会馴れした商業地域の住民ではない。


子供の時、例えどんなに狭くても思いっきり走ったりボール遊びをしたりする場所は地面の上でありたい。例え土ではなく、樹脂に覆われたものでは有っても、大地と接していたい。例え顔も知らぬとしても、同じ地域で育つものとして後輩にも同じ様で有ってほしい。




安藤忠雄氏の表参道ヒルズの計画は、最初素晴らしいと思った。
でも、自分の学校が巻き込まれるのは嫌なのだ。ものすごいエゴだと思う。ワガママだと思う。他でやってくれるなら幾らでもやってほしいと思うが、いざそれが自分の身に降りかかってくると嫌なのだ。一瞬にしてそう思わせたあの計画は、「既存の街並みとの調和と進化」「可能な限りの緑化」を幾ら詠おうとも、地域住民に「これは調和ではない」「緑化すれば環境がいいというものではない」と違和感をもたせた、何らかの欠点、つまりある意味机上の空論的な見落としがあるのだ。少なくとも、校庭は、宙に浮かせたくないのだ。



神宮前小学校は、渋谷区の中で一番校庭の狭い小学校だ。故に、在学中はもっと広い校庭に憧れた。そしてさらには、土のグラウンドに憧れた。樹脂でコーティングされた校庭なんかではなく、例え転んでジャリが食い込んで擦り傷が酷くなるんだとしても、土の校庭がいいなあと思っていた。年に数回ほど全校体育という催しが有って、小学校全員で代々木公園で一日中運動をする日が有った。そしてその日はとても心が高揚する日で、土や芝生が嬉しくて、そしてその次の日からまた樹脂に覆われた校庭で、土や芝生に憧れた。そして、地域住民は土地柄マンション生活者が多く、庭付きの一戸建てに住んでいる同級生の家は大層憧れの的だった。


そんな環境だからこそ、せめて地面と接していることぐらい残してほしい。そんな樹脂で覆われた校庭なんぞ、地面に有っても屋上に有っても同じだよなんて、私はとても言えないのだ。




世の知識人たちは神宮前の住民達を影で笑った。確かにその理由はエゴだろうし、ヒステリーな対応だったかもしれない。まあいい、幾らでも笑ってくれて構わない。でも、やっぱり小学校は大地と接していてほしい。どんなに周りと調和が取れず、みすぼらしい小学校になるのだとしても、地面で駆け回る小学生達を守りたい。






そして問いたい。



「反対住民達を笑ったあなたたちの言う調和とは、一体何との調和なのか?」



頭だけでなく、腹の底から肌感覚として考えてほしい。その時、ひ弱な都会ッ子と馬鹿にされる存在ゆえに「先んじて感じている事」もあるのだとはちょっとだけ感じてくれるといい。そしてそれはもしかしたら、何らかの真実と何らかの警鐘を含んでいるかもしれないと一瞬でも考えてくれると尚よい。.................そのあとでなら、幾らでも馬鹿なやつらだと笑ってくれていい。




まあ、所詮地元民のワガママだ。