のりしろも付箋紙も無い人生を送る人間の傾向(と対策)

友人に「初代彼氏以降、相手がいない期間が無い女の子」というのがいて、あるとき彼女の何回目かの彼氏の入れ替わりの話を聞いていたときに、ふと「まるでのりしろのある人生のようだ」と思ったことがある。前の彼氏と新しい彼氏、両方保持している期間が長かれ短かれ常に存在しており、その期間がまるで紙細工ののりしろのように思えたのだ。まあ数多くの新旧彼氏は、お互いが一時期ペトっとくっつけられていたことなど知る由もないのだろうが。

しかし、のりしろという言葉は何だかひどく懐かしく、たとえばこの季節なら七夕飾りの輪つなぎなどを思い起こさせる。そしてふと、折り紙で輪つなぎを作る為に、ノリで張り合わせた部分は重ねられた分色が濁ったなということを思い出す。ああ、人生ののりしろ期間も、存在はグレーだな、と思ったら急に笑えてきたりするのだ。


一方で、ベースの彼女は保持しつつも、とっかえひっかえセフレ的な女の子が入れ替わる男、というのも友人にいて、いつも彼の話を聞くたびに「付箋紙だらけのノートのようだ」と思う。ベースに選ぶノートブックは、ひどく質がよく、かつシンプルなものが選ばれているのに、時々そのシンプルさが寂しくなり、色々貼ってみたくなるのかもしれない。そして、飽きると糊の跡さえ残さずにペロッとはがして捨てる。ノートは決して傷つけないように、大事に大事に。しかしその付箋紙は、カラフルだったり、形がかわいかったり、キャラクターものだったり色々するのだろうな、と何となく想像して笑えたりもする。


さて、かく言う私はのりしろも付箋紙も無い人生である。どうも、紙が重なってカサカサ音を立てる感じの落ち着かなさに似て、わたしはどうもそういった付き合いを得意としない。だから、自分がどうこうすることはなくて、まず殆どの場合相手が「ほかに好きな相手が出来た」とか「お前はいい加減性格が悪いから嫌だ」とか「突然音信不通になった」とか「疲れた」とか、書いてて何か救いようが無い気がしてきたが(笑)、まあ、そんなことをいわれてしまい終わるのである。そして、「あくまで私からしてみれば」降って湧いたようにはさみでパスリと切られ、短冊のように哀愁を漂わせてひらひら揺れる紙切れに悲しく思いを寄せながら、さあこの後どうしようか、何て考えているそんな恋愛変遷だ。



しかし、ここ最近仕事が忙しいというのが大いに影響しているのであろうが、相手がいない期間が1年を当に超えていて(大抵半年以内のどうにかなるもんだったのだが)、それをだんだん周囲が心配し始めてきているのを感じる。まあ、年齢も大いに関係しているんだろうけれど。といって、誰も紹介してくれないわけだが(笑)、とはいえ最近「どういう人が好きなんだお前は」と聞かれる事が多くなり、改めて自分のパートナーというかむしろ共犯者となってくれる人、について考えたりする。


タイプとかそういうものは散々答えているのだが、まあ大体いつも出てくるのが「心身共に健康であろうとしていること」「好奇心旺盛であること」「感情の触れ幅がむやみに極端でないこと(要はヒステリーとか逆切れを起こさない人)」「親の思想が大幅にずれていないこと*1」「食事を楽しめる人」のような気がする。とはいえ、タイプというものはすべて当てはまっていないと駄目かというとそういうものでもないので、まあ好みとして口の端に乗せるのみである。



ここ最近考えるのは、一体全体私はどういうときに「あ、私この人好きかもしれない」と思ったんだろうかということだ。



自分のパターンとして、突然付き合い始めるということはまずなく、何となく知り合いから始まり、友達になって、さらに仲良くなって、そして、ようやく付き合い始めるので、その「友人として仲良くなって、相手を知っていく過程」において、ふと気付くパターンだ。その、ふと気付くのは何かというと、本当に本当に些細なことだ。


「この人はちゃんと一人で生きているんだな」


と思う瞬間だ。



ただの友人が、かっこいいとか、賢いとか、面白いとか、スマートだとか、センスが良いとか、そんな様々な魅力の影で、ふと「この人はこの場を離れた時にどんな風に過ごしているんだろう」と気になりだすときというものが、ちょっとこの人いいかもと思い始める瞬間なのだと思う。かっこいいとか賢いとか面白いとかスマートだとかセンスが良いとか、そんな魅力を吐き出す同じ頭の中で、すごく些細な日常の瑣末な雑事についてのこととか、自分の知らない他の世界についての思いとか、そんなことがどうやって治まっているんだろうと気になりだす時だ。
そして、そのちょっといいかもという気になり具合が、好きかもしれないに変わるのは、私の知るその人の表面の下できちんと、日常が滞りなく進行しているんだな、ということに気付く瞬間だ。この人こんな顔して、トイレットペーパーが切れそうだとか、電球替えなきゃとか、役所に手続きに行かなくちゃとか、料金払わなくちゃとか、そういった日常の、些細だけど決しておろそかに出来ないもの達をきちんと滞りなく行った上で、それが当たり前のようにさりげなく過ごして、その上で、かっこよく過ごしていたり、賢い頭を会話で展開してくれたり、面白く場を和ませてくれたり、スマートに気を使ってくれたり、存在そのものがセンスが良かったり、魅力を振りまいているんだわ、と思った瞬間に、多分私はその人のことが好きなのだ。


ちょっと良いかもしれないと思う人が、そのカッコいい鞄や、靴や、あるいはすばらしく美味しい店や、居心地のいい店を、どんな顔して選んだり探したりしているんだろう、そのすばらしい知識や判断力を、どんな顔で身に付けたんだろう、という、その人の作り上げる要因、誰もが気になるその人の魅力の大もとに、全く興味がないといったら嘘になる。でもそれ以上に、その人はその魅力の影で、どんな顔して料金明細と向き合っていたり、電球が切れたことを思い出したり、トイレットペーパーが切れそうなことを気付いたり、そんな些細の日常の瑣末、でも結構大変なことを表に出さずに淡々とこなしていることこそが、素敵だと思える。


栄養失調にもならず、毎日清潔な下着をちゃんと身に着けて、それがそれなりに大変であることを知りながら、当たり前のように毎日を静かに淡々と送っているということは、実は結構感動的なことだ。たった一人で生きてること。生きる糧を得るために、毎日仕事をしていること。人に不必要に過剰に迷惑をかけないこと。そのことをことさら凄いと、誰にも誇らず当たり前のような顔をしている事。そんなことが、何よりも重要だ。それが無いと、どんな魅力が上に乗っかってきても、私にとっては薄っぺらだ。


だから逆に、どんなにかっこよくても賢くても面白くてもスマートでもセンスが良くても、尋常ならぬレベルで部屋が汚かったり、親がいないと何も出来なかったり、或いは親がいなければ自分の日常の滞りなさは危ういのだということを知らなかったり、人の日々の営みなんてくだらないなどと言ってしまったり、そんな人は好きにならないだろうと思う。たとえ、一瞬良いかもと思っても、そういったものが垣間見えた時に引いてしまう。
だからきっと自分が不倫をしないのは「だってあなたのその日常、奥さんの庇護の上に成り立っているじゃない」とすぐ思ってしまうからだ。昔、何かのドラマで不倫をしている主人公が「私、あの人と別れるわ。だって、彼、トランクスにまで奥さんがアイロンかけてることに、おかしいとさえ思わないのよ」といったことを思い出す。そう、日常の瑣末なことから開放されている人に、魅力を感じないのだ。昔その人がどうであったかは関係ない。今自分の目の前にいる人が、どんな状況であるかだけが問題だ。




そういう訳で最近「一人暮らししてる人」というのも条件に加えようかしら、などと思い始めた。でも、その話を人にしたら「イマドキ30以上独身で一人暮らしじゃないなんてそんなにいないでしょ。」と切って捨てられた。そんなもん?



まあというわけで、忙しい中ものんびり相手は探しておりますので皆様ドウゾヨロシク(笑)?

*1:親の思想:別に宗教とかそういうのではなく、子供を育てるに当たっての考え方や、その人自身の人生観のようなもの。良かれ悪しかれ、子供は親の影響が大きく、受け入れるにせよ反抗するにせよ、結局は親の考えをベースに個性を重ねていくものなのは否めないので、そのベースとなる親の考えがあまりにもずれていると、価値観とか言う以前に非常に分かり合えないのである。だからきっと私は、相手の両親と仲良く出来ないような場合は比較的すぐに破綻すると思う