追悼

先日、中高時代の友人の十周忌を迎えた。

女子高ゆえに、それはもちろんは学外に彼氏がいる子もいるにはいたが、殆どが彼氏がいる自分なんて想像もできない遠い遠い存在だった様に思う。しかし彼女も私も共学の大学に進み、彼氏という存在が一気に近い物になった。女の子同士の秘密の恋愛話なんて、自分たちには関係ない領域のように思えた世界だったのに、急速に身近になっていた。そして実際お葬式に寄せられた言葉を見る限り、おそらく彼女にはその当時好きな対象がいたはずで、でもまだそれは成就はしておらず、ただなんとなくそれは遠かれ早かれ成就したのではないかという匂いを感じさせた。


それを感じ取った時、私は彼女の目指した教職の夢の成就とか、そういうもっと重要そうなことが実現できなかったという事実への嘆きよりも何よりも「彼女に、好きな人がいて、その好きな人と思いが通じ合っていて、ただそれだけがすごく幸せ」という想いを成就することなく逝ってしまったという事実に、涙がこぼれた。


人生なんて、些細な幸せの積み重ねだ。彼氏が出来て嬉しかった、彼氏と食べたご飯が美味しかった、喧嘩したけど仲直りできたとか、そんなそんな小さなことを、嬉しそうに報告する彼女を私は見たかった、それを、毎年のように思う。試験に受かったとか、試合に勝ったとか、夢がかなったとか、すごいものを見たとか、面白い出来事があったとか、それらに対する表情の変わり具合は、中高時代にさんざんっぱら共有したように思う。

ただ、嬉しそうに、ちょっと恥ずかしそうに、でも何よりも幸せそうに恋愛について語る表情はおそらく共有したことがなくて、その表情を知らずに抜け落ちていることがただ無性に悲しさを増させるのだ。たとえそれが良い恋愛でないのだとしても、ある一瞬だけでも物すごく幸せな瞬間と言うものがあり、それさえも知らずに彼女は亡くなってしまったのか、と思ったときに、もはや実体の無い彼女の体を虚空をつかむように抱きしめたくなる。嗚呼、もし生きていたとして、この10年に積み重ねられた幸せとは一体どんな変化を君にもたらし、私の前に立っているのだろうか。


そして、そう思うたびに恋愛も友情も仕事も何もかもひっくるめて、人と人との出会いを疎かにしがちではなかったかとその1年を振り返る。彼女が出来なかったことをとか、彼女の代わりに、何てそんなおこがましいことは考えない。ただ、一期一会を大切にしなくてはとまた新たに心に刻み、きっとそれが自分なりの彼女への追悼なのだと思いながら、また日々過ごしていくのみである。