負け犬以前

BCとDCの差は、キリスト誕生以前か以後か(もっとも最近はキリスト誕生はDC0年ではないと言われているが)ということであるが、つい最近だと「女性の形容詞としての負け犬という言葉登場」以前と以後、という時代があるような気がする。


負け犬という言葉を女性の社会的ポジションを説明する時に使う様になった今と、それ以前では、大きく違う気がするのだ。


現在女性達が恐れる「負け犬」という状態は、別につい最近になって表面化した状態ではない。昔からある女性の1形態のはずだ。つまり、負け犬という言葉が認知されるようになる前から「ああはなりたくない」と恐れる女性の1形態は存在していたはずなのだ。


様は「ああはなりたくない」の「ああ」が、「負け犬」という言葉に置き換えられただけなのだが、置き換えられた瞬間にその「ああ」が具体的想像可能な実態を帯びた対象になったのは確かである。


物事は、名前をつけられた瞬間に急速に、良い意味でも悪い意味でも生き生きと実体を持って存在し始める。茫洋としたよくわからない何か、が「ソレ」に変わる瞬間である。そして名前がついた瞬間に、他の名前の物事との区別が求められ、その区別認識を、たくさんの人が個別に行い、理解浸透していく過程において、その物事の姿がより鮮明になってくる。


と同時に、その「茫洋とした何か」であったものは、名前がついた瞬間に「その名前のもとで行われる大多数の最小公倍数的な共通認識」部分に絞り込まれてしまい、多少その「何か」の範囲が狭くなってしまう。

イメージとしては、音楽は確かにそこにあったのに、CDになった瞬間に可聴域でない音がカットされてしまったようなそんな感じだ。別になくてもどうにかなるのだが、なんともいえない微妙な感じは消え去るという状態。


という意味で、負け犬登場以前に女性達が恐れていた「ああはなりたくない」の「ああ」は一体どんなものだったのだろうか、負け犬という名前を持った瞬間に切り捨てられたのは何だったのだろうか、と思うことがある。


特にまあ、やけに結婚願望の強い女性が「私は負け犬だけには絶対なりたくなくってぇ」などと気が狂ってるんじゃないかぐらいの勢いで主張するのを見聞きする時に「あなたは一体負け犬という言葉のなかった数年前は、どうなりたくなかったのか」と説明してほしい気分に駆られるというような心持ちなのだが。


つまり、負け犬という言葉が登場する以前は「ああはなりたくない」の「ああ」について、自己責任において内容説明の必要があったのだが、負け犬登場以降は、そんなことをしなくても済んでしまう様になったのである。これは一種の、思考停止に近い。


自分の将来の姿、それが例えなりたくない姿であったとしても、自分の言葉で語る必要がなくなったという事態は、非常に楽なことだが、バカへの道も加速しているような気がしないでもないのだ。絶対、表現力や説明力は失われて行っているような気がしてならず、その失われ具合がまた「一方的な負け犬恐怖信仰」、様は「女は黙って稼ぎのいい旦那でも捕まえて主婦になってるのが一番賢いのよ至上主義」になっており、「色々難しいことなんて必要ないのよ。むしろかっこ悪いし」ぐらいのシフトが起きているように思う。


負け犬という言葉は、女の思考力を奪う、強力な言葉となってはいないだろうかと、時々危惧することがある、まあいいたいことはそんなことで。


そして、こんなことを色々言っている時点で既に、負け犬恐怖教信者からは馬鹿にされる存在なのだろう私自身は、と自省してみたりする。


とまあ、ぐだぐだ書いていたが、ふと「前も同じようなことを書いた気がする」と思って過去を辿ってみたら、やはり書いていた。ドキュンと厨房についてである(笑)。



ドキュンと厨房と負け犬.......毎度私は一体何を真剣に考えているのかと思わないではいられないうだるような夏の日である。