自給自足の世界

(あの割とどうでもいい話なんで暇な方のみ.......)



実家の初代ハムスターをベゴニアの鉢に埋めたら、えらい巨大化して気味が悪かった、という話をしたら「うちもハムスターを庭に埋めたことがある」という話を聞かせてくれた人がいた。なんでも、ハムスターとともに、好きだったエサ「インディアンコーン」を一緒に埋めてあげた所、インディアンコーンが育ってしまい、実が成り、結局その実は2代目のハムスターが食べていたらしい。自給自足というかなんというか。


そんな話をしていたら、知人が教えてくれたのが、完全に閉鎖されている状態で人間が暮らす施設。サイトの説明によると

この施設は、閉鎖空間に自然生態系を模擬して実験を行う施設であり、植物栽培実験施設、動物飼育・居住実験施設及び陸・水圏実験施設から構成され、いわばミニ地球と呼べるものを目指しています。本施設に居住する人間や動物の食料は植物から得、植物栽培に必要な肥料は人間と動物の排泄物から作るなど、必要な物質は全て内部でリサイクルされ、利用されます。
http://www.ies.or.jp/japanese/research/ceef.html

らしい。

まあ「こちらの研究所のこんな研究をし始めたそもそもの目的」、加えて「この研究にお金を出した人たちが目論んでいる成果」が何かがいまいち読み取れないのだが、私が持った印象は「第3次大戦が起きたときに自活できる核シェルター内に配備する設備の研究をしている」ような感覚だった。


その思いを加速させるのが、この研究を行う団体の本拠地の住所だ。団体名は「財団法人 環境科学技術研究所」。場所は六ヶ所村だ。うーん、やっぱり核シェルター研究じゃないのかな........ま、いいけど。



それにしてもやっぱり、と思ってしまうのが「電気ガスなどのエネルギー系は外から供給されている」ことである。如何せんこればかりはどうしようもないのか........と思ってならない。実は、これと同じことが「リサイクル」においても発生している。


どういうことかというと、地球資源を大切にする為に始められたリサイクルであるが、今現状たとえばペットボトルなり、アルミ缶なりをリサイクルするためには、結局は石油エネルギーが必要となってくるのである。モノの原材料はリサイクルできても、エネルギー資源はリサイクル出来ていない。リサイクルリサイクル、環境に優しい環境に優しい、と声高に叫ぼうとも、そのリサイクル行為までもが、石油ををエネルギー資源として日々大量に消費しているという事は以外に理解されていない。


そして、前述した「ミニ地球」でさえも、エネルギーだけは他からの供給に頼っている。ただ別に、このことを良いとか悪いとか私は言いたいわけではなく、「全くもって今の生活、文明という物は石油無しではやっていけないのだ」と実感せざるを得ないということである。



例えば数百年前の江戸時代。日本人は石油などというモノに頼らず生活できていた。しかも、江戸時代のリサイクルというものは本当にすごい。例えば米を例に取る。収穫された米は、人間のエネルギーとなる。そして、その人間が排泄した糞尿は、米の肥料としてまた戻ってくる。そして、米以外の藁の部分は、燃料となったり、あるいは細かな日常用品として利用されていく。そして、燃料となった後の灰はまた、米の肥料となり、日常用品として利用された物の使い倒してボロボロになったものはまた、燃料になり、肥料になっていく。

これを、毎年毎年延々続けていた。その年に生産した作物は、次の一年間かけてあらゆる部分が消費し尽くされ、還元され、また次のにはその還元された物で作物を育てながら、前の年の作物を消費しつつ、還元しつつ、というのをただひたすらに、当たり前の事として続けていた。

自分たちが1年間で使うものを、全て一年間で作り上げ、消費し尽くし、還元できる物は還元し、他からの力を借りない「完璧なリサイクル」によって、人々の生活が成り立っていた。



ただ、それら江戸時代の生活が素晴らしいと絶賛するのは簡単だ。しかし、それに戻れと言うのは土台無理な話であろう。江戸時代の生活を「自分たちが使う必要な物だけを作り、消費していく、プラスマイナスゼロの美しい世界」という物は、裏を返せば「無駄なものは排除されている世界」である。


無駄なものとは、別に物品だけではなく、社会的な営みとして例えば「サービス業」なんて物も入ってくるだろう。江戸時代の生活と言うのは、今でいう第一次産業と、第二次産業が、経済活動のほとんどを占める社会であって、今のサービス業がものすごく乱立する社会と言うのは「石油エネルギーにより可能になった生産力」故に、供給過多になってしまう第一次、及び第二次産業にかける人員の社会生活を成り立たせる為に、つまりは仕事を生み出す為に色んな職業を生み出したといっても過言ではないのかと思っている。


ちなみに、江戸時代も中盤以降になってくると、実はやはり人員過多にある傾向にあったそうだ。その、過多な人員はどのようにして食っていけていたのかというと、豪農、豪商による豪遊であったらしい。商いの才覚に長けていた彼らは、ひどく儲けていたのであるが、同時に「金を使わないと経済が動かない、故に自分たちも落ちぶれていく」という事を、実は自覚していた。

故に、余った金は溜め込まずにその年の間に使いきった。遊び、飲み、金をありとあらゆる所に落としていき、そしてそれらの金を受け取った者がまた金を使い、結局自分たちの手元に戻ってきてまたばら撒く。そんなことを、毎年毎年行っていたらしい。ただしもちろん、使いすぎたり、使うタイミングを外したり、使う相手を間違えたりした物たちは、自ら消えていったわけであるが。


そう考えると、現代のサービス業と言うのは実は、江戸時代の豪農豪商がしていた事を、一般人皆で補い合う事で成り立っている産業なのではないか、と乱暴ではあるが思えてくるのだった。そしてしかも悪いことに、今は第一次産業第二次産業までが、必要以上に生産しているが故に、そちらにも豪農豪商的消費者が必要とされているのだ。無駄を、無駄で消費する循環社会である。



さて、繰り返しになるが、現代社会というものは、人間が必要最低限な生活を送るには過剰である石油エネルギーによって、社会が成り立っているのだという事を認識しなくてはならないと思う。そして「ミニ地球」と呼ぶ自給自足実験施設でさえも、根本はそれらに頼らざるを得ない現実がある。


つまり、今の生活レベルを維持しようと思ったら、何か「強力なエネルギー」に頼らざるを得ない状況がある。たとえ、こぞって石油以外のそれを各研究者が探しているのだとしても、「ただ社会生活を営む事」自体が、滅亡の道へ向かっているような気がするのは、決して杞憂ではないと思う。リサイクルだの何だの、環境に優しいだの何だの言っても、その人自身が社会生活を歩んでいる以上、どうしたって環境を壊しにかかっているわけだ。


環境に優しい生活を声高に叫ぶ主婦も、電気を使うな、電気を使っている店に行くな、電気を使って作った商品を使うな、と言ったら怒り出すのではないか。もちろん、かくいう私もその生活を変えろといわれても出来ない事を自覚している。わずかながらでもと思い、環境に優しくなるような生活を心がけはするが、声高には恥ずかしくて叫べない。なんせ、自分の勤める会社そのものがサービス産業で、物品供給過多のあとのサービス供給過多、故に生まれた業種と言っても過言ではないと思うからだ。



もはや、どうすれば良いのか私にはさっぱりわからない。多分、私が生きていく時代には環境はまだ生きていける状況にあるだろう。でも、次世代、次々世代はどうかわからない。でも、その為に自分だけが我慢すると言うのも何だか嫌だと言うわがままぶりだ。



結局「何だかすごい権力者が『うりゃー!今日から江戸時代に逆戻りの生活するんじゃボケー!』と大号令を発してくれれば従うのに」等と、そうなれば「しょうがないなあ」と思いつつ従うのに、と、ひどくダメなことを思うのであった。そしてふと、ああなんかこういうこと、色んな宗教に出てくるなあ、とぼんやり思った。神の鉄槌的なやつ。天罰とかさ。



そういえば、バビロンの発掘された石版にさえも「最近の若い者は全くどうしようもない」と言った事がかかれていたと言う。きっとそれはほんの象徴で、読み取るべき事は「今も昔も、結局人間のやることは変わらない」ってことだろう。ああ、それを「原罪」と読んだのかもしれない、どこかの宗教家は................上手い事を言う、そんなことを思いつつ、今日も私はエネルギーに恩恵を受けて生活するのだった。