東京の季節

 小学生の時「都会っ子のおまえには季節感なんて無いんだろうな」と、父に言われて大げんかをしたことがある。私の主張は、都会であっても季節によって微妙に違う空気感は感じられるし、街路樹や道ばたの隅に生える植物の変遷や、見上げたときの空の色や雲の形、ちゃんと観察すれば季節というものは様々な所で主張しているのであり、そりゃあ山村で感じるわかりやすい季節感など望むべくもないが、ちゃんと敏感に季節を察知しているのだ、バカにすんな、とムキになったのだった。父は父で、田んぼに水が入れられたら初夏だな、とかそろそろこの虫を見かけるようになったから秋が来るなとか、樹木の芽が膨らんできたから冬が終わるなとか、そう言うものを知識として知ってはいても実体験したことがないから、感覚として身に付いていないだろう、と言うものだ。私が言いたいのは密かな季節感をちゃんと感じている自分だし、父の言いたいのは、わかりやすい日本の四季を実体験してないから頭でっかちでしかないよな、ということでそもそも論点がずれているのだった。しかも、頑固親父と反抗期時期の小学生とくりゃあ平行線をたどるのは当たり前なわけで、いさめた母親まで巻き込んでたかが季節感の話一本で大騒動を繰り広げた。まあ、今となっては懐かしい思い出ではあるが。


 そして「ちゃんと細やかに観察して都会にいながらも季節感をちゃんと感じている」と主張した小学生の私はそれ以来、ムキになって都会の季節感探しに躍起になったのだった。温くなった風に春を感じ、梅、桜、木蓮ツツジハナミズキ、と次から次に順に咲いていく花を見ては春の忙しさを思い、まだ日の透ける薄い若葉の生えた木々やツバメの姿に初夏を感じる。やがて梅雨が来て、葉の色は濃くなっていき梅雨の雨で水を含んだ石は建物の色さえも暗くする。都会特有の怒濤の様な雷雨が訪れると梅雨は明け、一気に蝉が鳴き出し夏にはいる。空を見上げれば弾力の有りそうな入道雲がそびえ立ち、日差しの強さと比例する様に影の色は濃くなっていく。そして蝉の声がいつしかツクツクボーシに代わり、同時期に夕方の虫の声も聞こえ始めるたころ、夏の終わりを高らかに告げる様な雷雨がおそってきて、次の日からはもう空も高くうろこ雲やらいわし雲やらぽこぽことした雲に変わっている。涼しくなったな、と思い始めた頃から食欲の秋とばかりに店頭に秋の味覚が並び始め、どれを食べようかと悩みつつふと来た道を振り返ると街路樹が紅葉し始めているのに気づく。そのうち、葉っぱは地面に降り始め、一気に寒くなり冬になっていく。そして、冬はふと街路樹の根本に目をやれば霜柱が立っていたり、オフィス街にもうけられた噴水の池に氷が張っていたり、野良猫が冬毛に変わってもこもこしていたりする。


 まあ、これらはいい季節の話だ。例えば、夏になると淀んだどぶ川が臭いとか、秋の長雨の時期になると枯れ葉と雨で道路がぐっちゃんぐっちゃんになって汚いとか、出来れば体験したくない季節感もたくさんある。それにしても、無機質に思える都会でさえも観察をすれば季節感というものはありとあらゆるところに転がっている。


 もう1つ、田舎であろうと都会であろうと共通な季節感がある。星空だ。まあただし、都会の空で見える星には限界がある。天の川を見るなんて事は望むべくもないし、毎年お盆時期恒例のペルセウス流星群だって、大規模な年でなければ都会では確認できない。しかし、有名な星だけは確認できるので、夏の大三角を見ればああ夏だな、オリオン座の3つ星を見れば冬だな、とか感じることが出来る。小学生の頃星マニアだった身としては、夜空を見上げて○○座が見えると、ああこの季節だな、と思うのは季節を感じるにあたって最も簡単な手段だ。


 そう、こうして私は今まで季節感を感じ取ってきたのだ。日々空を見上げていれば、同じ飛行機雲でも季節によって微妙に違うのがわかってくるし、道の片隅を見ればこんな都会でも植物は息づいているし、耳を澄ませば都会の喧噪の中にも虫や鳥たちの主張する声が聞こえてくる。蝉の声が大きいと、ふと5,6年前を思いめぐらせ、そう言えばあのころ確か蝉の大発生とか言っていたな、今年はその子供の世代かなどと懐かしんでみたりもする。


 それにしても、やはりこのごろ環境というものがおかしくなってきたと思う。異常気象異常気象と口々に言うが、そんなことが5年も続けば異常が通常になってくる。日本の季節はどうかわからないが、少なくとも東京の季節感は壊れ始めた。季節の変わり目の兆し、と言うものが段々小さくなってきて、季節はいつの間にか移り変わり、今をいったい何という季節と呼べばいいのか釈然としないままに日々がすぎていっている。それは、ただ猛暑だとか冷夏だとか水不足だとか暖冬だとか、そういう現象としての結果の問題ではなく、それまで息づいていたものの生命力が明らかに落ちて行っている感覚で、それを肌に感じれば感じるほど、環境破壊というものを身に染みて考えざるを得ない。


 しかし、こんな事を書いている私でさえも、最近忙しさにかまけて道ばたも見ず、空も見上げず、耳を澄ませて音を聞いてもいない。たまに空を見上げても、明け方だったりすることが多く、それは1つ先の季節の星が輝いているのみだ。秋の星を眺めながら、夏の夜を帰る。より大きい赤い星を見つけて、そう言えば火星が近づいているんだったっけなと、宇宙的長いスパンの時間の流れを確認しても、自分の中の季節感のズレは修正されない。こんな風にして、季節感覚が失われていく、あるいはもう失われてしまった人たちが同じような顔をして都会生活を送り、気づかぬまま、気づかぬまま、そして同時に鈍感に鈍感に感覚が下がっていき................その先にあるのはどんな東京なのだろうか。都会人は時代環境に対応すべく進化しているのか、それとも退化しているのか。答えを突きつけられたときに、ただただ敬虔に状況を受け止めることが出来る様になっていようと、静かに思うのみなのだ。