人脈とポケモンとポケモンマスター

(こちらは本当に相当前に書いた文章でございますですよ)


ポケモンというアニメに代表される、「手持ちの駒を繰り出して戦うアニメ(マンガ)」と言うのがこの頃実に多い。しかし、これって今の現実社会の生き抜き方を、如実にあらわしているんじゃないかと思った。


つまり、自分自身の能力もさることながら、自分にどんだけ有能な持ち駒があるかが、現実社会においても勝負の分かれ目になるということだ。昔は、自分自身が能力があれば生き抜いていけた時代で、だからマンガの主人公達もヒーロー1人が頑張っていたし、せいぜいいても共に戦う仲間で、その仲間達も基本的には1人だった。そして、読者はそのキャラクターの能力の凄さに憧れを持ち、時には自分に置き換えて生きてきた。


ところが、ポケモンは違う。持っているポケモンが凄くても、そのポケモンを駒として所有するポケモンマスター自身は、必ずしも凄い能力を持ったヒーローではないのだ。そしてマスターが持つポケモンも、必ずしも能力が高ければいいというものではなく、ともに生きていく仲間として、キャラクターも含めて選んでいく。そして最もミソなのがとっておきのポケモンと言うのはいても、万能なポケモンと言うのはいない所。色々な場面で戦い抜いていく為に、いろいろな種類のポケモンを集めていくことが、マスターが強くなっていく条件である。一方ポケモンたちも、マスターの能力もさることながら、人格であったり、はたまた外見も有るかもしれないが、人としての魅力、或いは好みでマスターとして有りか無しかを判断する。


これを、現実世界に置き換えるとどうだろう?ポケモンを部下だけではなく、友人知人、ビジネス上の付き合い、先輩、などなど全部ひっくるめた人脈と言う意味で、まず捉える。仕事や、遊びや、色々な場面で自分では補完できない能力を補完してくれるのがそれらの人たちだ。場面場面によってどのポケモンを(つまりどの能力を持った知人を)繰り出すか、というマスターとしての能力も求められるのは、特に仕事というい場面では一緒だ。そして、ポケモンにも意思がある様に、知人達にも意思があり「こいつ(このマスター)にはついていても良い」と思わせなければついてきてもらえない。よって、自分自身の魅力も重要になってくる。

現実とアニメと最も違うのは、自分がポケモンマスターであることもあれば、自分が誰かのポケモンになることもあるということだ。それ以外は、ポケモンの世界は正に、今の情報や能力を内包する人脈と言う物が、社会で生き抜いていくための最重要項目の一つとなっていることを、如実に表現しているのだ。


しかし、こういう思考で人を切っていくと、「従順(何でも聞く)なポケモンしか持たない人」や「ポケモンの種類をいっぱい知っているが、実際に持っているポケモンは少ない人」とか「そもそもポケモンの集め方がわからない人」や「ポケモンなどいなくても戦えるさと言う人」などなど、色んな人がいるなあと見えてくる。


さて、何でこんなことを言い出したのかというと、先日友人が私のことを「とっておきの人に対して繰り出すポケモン」と言い出したからである(まあこれは大変ありがたい言葉であるのだが)。その友人は、私をポケモンとして所有しながらも、私にとってもポケモンである存在である。なのでまあ、その友人とはマスターとポケモンの関係として相思相愛な訳だが、果して他の人たちとはどういう関係なのだろうかと考え始めた。


そもそも私自身は凄い人大好き人間なので、凄い人を見つけるとすぐについて行ってしまう(笑)。で、ありがたいことに皆さん受け入れてくれるので、私の友人知人は総じて優秀であり、つまり私の視点から見れば、目の前には各方面において優秀なるポケモンが揃っている訳だ。ただし、これらポケモンたちが、私のことをマスターとして認めてくれているのかどうかはまた話が違ってくる。実際、どうなんでしょう?


そして、自分自身はポケモンとして何かしらの能力を認めてもらえるような存在であるのかと言うことも疑問だ。でまあ、第一関門は突破して認めてもらったとして、じゃあ「どんなときに繰り出すポケモン」として、捉えられているのかというのも疑問である。


はてさて。優秀なポケモンマスターへの道と、有能なるポケモンとなる道、両方を極めていかなければいけない現実社会は、雷撃を食らわなくても十分生き抜くのには厳しい環境であることだけは確かなのだ。