粋とかユーモアとかクールとか何かそんな感じの

粋、という言葉が有って、でももはやこの言葉は消えて久しいというか、いや消えてはいないんだけれども「粋ってどんな感じ」なのかが共通認識としてもてなくなっているという意味で、消えていると言っていいのではないかと私は思っている。まあ同じような意味で、いなせなとかはんなりとかもあると感じるのだけれど。


和服を着るようになってから、そういうことをとみに感じるようになった。そして同時に、それらの言葉は「和な感じ」に「のみ」ついて回るような印象であったのだけれど、最近その考えは危険なのではないかと思うようになった。



どのあたりのツボが「カッコイイ」とか「面白い」とか「センス良い」とされているのかは、文化における重要ポイントなのではないかと思うわけだ。イギリスのユーモアに、わかるようでわからないような部分が在るように、日本の粋、にだって日本人は共通認識として持っているが、外国人にはわからない、要はツボのようなものというのがあるはずだ。そしてそれは、目に見えるような判りやすさではないはずだ。


うまく言葉には表せないけれども感覚として持ち得ているその「ツボ」こそが、実は文化の真髄なのではないかと思えるのだ。言葉で説明したり、体系化して分類できるようになった瞬間に、それは万人にわかる知識でしかなくなり、誰にでも習得できるものに落ちているように感じる。


だから、豊かな文化とはある意味、その社会において長年にわたって積み重ねられてきた「うまく説明できないけれども脈々と受け継がれている何か」の豊かさと言えるのではないかと思うのだ。その、言い表せられない何かに対し、神秘性をを感じたりすることが、その文化への尊敬の念や憧れに繋がっていくのではないだろうか。


ゆえに、例えばアメリカに文化がないといわれるのは、歴史が浅いという以前に、移民国家であるがゆえに「ありとあらゆるものを相互理解できるように体系化し、言語で説明できるようにする必要があった」ということが大いに起因してはいないだろうか。そしてそれが「凄ければいいってもんじゃないんだよ」「金さえ稼げればいいってもんじゃないんだよ」という、アメリカ以外の国からのそれこそ「うまく説明できないけれど何か感じる不快感」に繋がっているように感じられる。


逆にいえば、うまく説明できない感覚的な何か、が共通認識ではなくなったとき、そこに文化があると言えるのだろうか。そこに残っているのは、表層的な知識だけではないだろうか?表層的な知識は、資料として残りつづける。しかし、感覚的な何かは、その文化社会における伝承で伝わるものだ。




現在、いわゆる日本文化といわれるものは、習い事的な物、つまりは特殊なものとされてしまい、その特殊世界でのみ伝承されるものとなってきている。しかしそんな一部社会のものではない、いわゆる日本民族として持ちえていた伝承的な感覚的共通認識も日本文化というべきものの1つであるはずだ。もっともっと、庶民的な感覚的共通認識というものだ。そしてそれこそが、いまや崩壊はしていないだろうか?いや、既に自分自身がそれを伝承されていないのではないか。



迎合と理解は違う。迎合は相手にただあわせていれば良いだけだが、理解はこちら側も努力しなくてはならない。日本文化の静かなる喪失具合は、戦後主に欧米諸国に対する迎合から起因してはいないだろうか。そしてそのうち「理解」を行うベースすら失ってしまったのが正に今ではないのだろうか。ベースは地味であるだけにおろそかにしがちで、それゆえに気付いたらなくなっていたというのが現状か。だが、その地味なベースこそが重要で、しかしどう考えても今それは消えかけている。日本のわけわからなさ、日本人が海外に出たときに感じる自己の薄っぺらさは、それが起因してはいないだろうか。




もしかして、だが。


単に私の勝手なる期待でしかないのかもしれない。しかし、最近の「和文化流行り」は日本人全体で「消え行く共通認識」への恐怖を、おぼろげながら感じ取っている最後の足掻きであるのかもしれない、と思わないではない。これ以上失わない様にと、民族的本能が働いているのかもしれない。

そうであったら良いな、と思う。そして少なくとも今、自分が失わずに持ち得た日本的共通認識を、伝承していくことが出来れば、それはこの上なく幸せであると思えてならない。さらには、まだ可能であるレベルのものであれば、これからでも良いから自分も伝承されたい、と思ってやまないのである。











完全なる余談だが、最近海外で受け入れられている新しい日本文化というと、いわゆる「萌え」系なわけであるが、それこそ「なんとも説明しがたい『萌え』という共通認識」という確固たるベースがあり、その上に構築された事象であるがゆえに、深みや何やらがあるのではないかと思わずにはいられない。という意味では、日本文化は色々なものを失いつつも、新たなるモノも生み出している訳で、そこらへんは評価すべきものなんじゃないかと感じたりしている。