いろんな意味でヲタ話

世の中にはヲタクな人は数多くいるが、ぶっちゃけ敬遠される人と受け入れられる人とに分類される、と思っている。多分、この点は多くの人の了承をえられることと思う。


が、敬遠と受入の境界線が、一体どこら辺にあるのだろうか、というのは意外にはっきりしない。


ヲタクたるもの、それが例え敬遠される存在であろうと、受け入れられる存在であろうと、一旦しゃべりだしたらそれ相応の脳内世界と知識量を持ちえており、社会的受け入れられ具合の高低はあまり関係なかったりすると思う。


しかし現実に、「あの人ヤバイ」「あの人たちヤバイ」と一歩引いて見られてしまう人たちと、ごく普通に社会生活を送る人、いやむしろ「ある特定のジャンルになるとタガが外れるけど基本面白い」と積極的に受け入れられる人と、明確に分かれてしまっているのは確かなことで。




その差は一体どこから来ているのだろうか?




そもそも敬遠されるヲタクは、ファッションがやばいとかしゃべり口調がやばいとか目つきがやばいとか、いろいろ判別するポイントが上げられるが、それら判別ポイントがなくても「どうもあの人はちょっと敬遠したい」と思わせる全体的な雰囲気、というものが存在する。

そのなんともいえない「全体的な雰囲気」は何なんだろうかと、常々考えていた。一般人に何が加わると「敬遠したくなる雰囲気」が作られるのだろうか、あるいは、一般人がどの一線を越えてしまうと「敬遠したくなる雰囲気」を持ちえてしまうのだろうか、ということだ。


これが判れば、それにさえ気をつければ一生私は円滑な社会生活を送ることができるわけだし、判らなければ、気付かないうちに敬遠される雰囲気を身にまとっているかもしれない。判らない故に、そうならない様常にびくびくしなくてはならないのは、ちょっと時間がもったいない。


何を加えてはいけないのか、何を超えてはいけないのか、色々思いつきはするもののいまひとつしっくり来ない。と、この週末ちらほらと某イベント開催の為に「敬遠される側に分類される人たち」をちらほら目にする機会があり、観察しているうちに、ふと思いついた。



プラスオンではなく、マイナスではないだろうか、ということである。



受け入れらている人に、何かを足すと敬遠されるのではなく、受け入れられている状態から何かを引くと敬遠されるようになるのではないだろうか。ある一線とは、受け入れられる為に必要な要素を、こそぎ落としてしまうマイナスの一線ではないだろうか。そしてそれは




「世間を気にする目」




では無いだろうか?


同じ「いや所詮私はヲタですから」という台詞でも、自分を茶化すのと、開き直るのとでは大きく違う。
あくまで世間との比較が存在し、自分の存在のバランスを図りながら茶化し気味に自分の嗜好について語るのと、自分の脳内世界優先であくまで基準は自分にある開き直りによる自己正当化・自己顕示の違いがそこにある。(但しここで断っておくが、敬遠されることを悪い、とは思っていない。私自身が、敬遠されたくないと思っているだけの話だ。だから、別に馬鹿にもしないし、差別もしない。そういう人だと思うだけだ。話して楽しければ友達にもなる。)



しかし、敬遠される人たちは、世間を気にする目をこそぎ落とした結果、脳内世界を最大限に引き出す自由を得ていると言っても良いと思う。


世間の目を気にするが故に、つまり冷静であるが故に「どう考えても15歳のきれい目の男の子の格好を30近い不細工な女がやるのは無理があるだろう」と考えてしまうところを、世間を気にしないが故に「私はこのキャラクターの格好をしたいからする」とコスプレをする。


世間の目を気にすれば、周りの雰囲気に合わせて会話の内容を変化させていくが、世間の目を気にしないから自分の好きなことだけを語り続ける。或いは書き続ける。

ただし、そんなことをしていると「いわゆる世間」は受け入れてくれなくなるから、受け入れてくれる友達を探す。そして見つけた友達はまた同類であるから、お互いがお互いの相乗効果で、脳内世界はどんどん高まっていく。

そして「仲間同士」の自由な世界で想像や妄想や行動の威力は増していく。同時に、世間の目など気にしないパワーも高まっているから、自分が浮いていることも気にならなくなる。いや、むしろこの大切な仲間達との時間こそが守るべきものである。そして仲間同士でのみ通じる言葉や言い回し、口調が発生する。しかしそれらは世間からしてみれば異様なものと映り、ますます敬遠される。だが、こんな楽しい時間を知らないなんて、世間一般人はむしろバカだと、自らも世間と一線を引く...............こんな循環が、徐々に「敬遠される」雰囲気を形作っているのではないだろうか?


「判りやすいヤバ目ヲタの格好(黒づくめとかゴスロリとかまあ色々)」なんてものは、仲間内の相乗効果の結果の一つなのだろう。格好が先に来るのではなく、世間の目を捨てたがゆえのゴールのひとつであるのだろう。

だから「似合わない人ほどそういう格好をしたがる」発言は、そもそも世間の目を捨てているのだから、労力の無駄なのかもしれない。


しかし、世間から敬遠はされたものの、脳内世界は萌えMAX、幸せ度は満載だ。世間を気にしていた時よりよほど楽しいかもしれない。ああこれはもしや






「脳内妄想による幸せ」と「世間からの受け入れられ具合」の等価交換(笑)?








さて、気の移ろいやすい私は、世間の目を気にせず暴走したところですぐ飽きることを知っているから、タガを外さず次から次に様々なジャンルに手を出し、ぎりぎりまで堀っては留まることを繰り返す。故に、今のところ脳内世界の萌えMAXは体験出来ていない代わりに、世間からもぎりぎり見放されてはいない.............と、思っているが、果たしてどうだろう?


実はとっくに何かを引き換えに、世の中から逸脱してしまっているのかもしれない。しかしそれはもう、知らぬうちに私を敬遠した「世間一般最大公約数な人たち」のみが知ることで、教えてもらうことはおそらくかなわず、もはや本人は気付くこともできないのだ(笑)。