WEB2.0が定義しきれない理由考察

 昨今WEB2.0論議熱が非常に高まっているが、どれを読んでも結局「WEB2.0とはぶっちゃけ何なのかが解らない」に帰着する。

 大体において論じている文章たちが「WEB2.0には色々な捉え方があるが」なんて前置きして始まっているのだからしょうがないといえばしょうがないのであるが。

 それら文章をいくつか集めて並べてみると、ちょっとした論点や結論の差異に応じて、まるでグラデーションのように並べることが出来る。そのグラデーションレベルに応じて、順々に読んでいくと何だかわかったような気に成れるのだが、ふと我に返って最初と最後の文章を比較してみると、全く違うことを言っていたりする事に気づく。


 そんなこんなで最近の私はWEB2.0に翻弄されっぱなしだったのだが、ある時他人の文章を読むことを止めて一歩引いて考えた時に「似たような混乱した話が有ったな」と思い出した。



 ケータイの第四世代の話題である。



 ケータイは、アナログ→TDM/GSM→CDMAと、通信方式の変遷によって第一世代、第二世代、第三世代と呼ばれてきたが、ここ次の第四世代の段になって急に「そもそも第四世代とは何か」という定義から始まり、しかも各キャリアや研究機関等の専門家達がそれぞれ思い思いのことを言うものだから、定義自体が混乱している。

 通信速度だけのことを言う人もあれば、共用できるほかのインフラとの融合の話だったり、そして後者であれば、共用する選択肢がまた多彩に分岐する。搭載される機能のを語る場合も有り、そうなってくるとさらに多種多様だ。

 そして、その混乱している定義の上に「第四世代のケータイ像」等を語るものだから、選択肢はさらに分岐し、動物園かと思うようなの多彩さを見せている。


 この混乱は、ケータイそのものは「第三世代時点で通信方式の進化が一段落している」からに他ならない。にもかかわらず、同じ土壌で進化の世代論を語ろうとしているから混乱する。

 ケータイの進化はこれまでインフラの進化で語られてきた。その文脈で、第三世代までやってきた。

 しかし、第三世代まで来た時点でさらに付加される進化は、通信スピードの「向上(方式の変換ではない)」であり、既存のインフラとの融合であり、端末自体への機能追加であり、それらはまさにキャリアなりメーカーなりが「サービス/商品提供上選択できるもの」でしかない。

 カメラ付かそうでないかが売り上げを左右したように、無線LANに対応しているかしていないかは商品戦略上考えるべきことで、業界的に定義できることではない。


 ゆえに、「Beyond 3G(通称)」と呼ぶ人はある意味正しい。


 もはや、ケータイの進化は、コレまでのケータイインフラ世代論で語るべき土壌ではないのであり、新たなる場、新たなる進化軸において語り、必要であればば世代分けすべきものなのである。

 ケータイ第四世代論の混乱は、そこに起因していると私には思えてならない。




 さて、話を戻そう。


 WEB2.0論が混乱しているのも、ケータイ第四世代と原因が同じように思えるのである。
 WEBという存在は、ある意味誕生した時点で完成されていたといっても良い形態を持っていた。この十数年間で起きた変化は、XMLJavaFLASHなどの手法の進化であり、WEBそのものの捉え方を劇的に変化させるような進化は起きなかった。

 そして、WEB2.0論のどの話を聞いても、大きくステップアップするような変化の話は見当たらない。

 それは何故なのかといえば、WEBの進化が技術だけでは語れないものだからなのである。技術であれば、ある程度の線引きは可能だ。そこに世代論を持ち込んでも、無理は生じない。

 しかし、技術以外の要因が大きく作用するとき、しかもその要因を明確に定義しきれないとき、議論が混乱するのは当たり前の話なのである。


 そもそもWEBというものは、普及し始めた頃からWEBの最終形態、つまりは「究極のWEB像」というものを持っていた様に思う。ただしそれは技術的な進化ゆえの最終形態ではなく、人間の考え方であるとか、社会のあり方とか、企業のスタンスとか、そういったものを諸々踏まえた「生活の変化」だった。

 インフラも、情報も、一極集中の支配から逃れて分散化し、全ての情報がリンクしたB2B、B2C、C2Cを超えた、P2Pの世界へ。それゆえにもたらされる情報取得方法の変化、しいては生活の変化へ、一個人が世の中を動かせるかもしれない社会の変化へ。

 インターネット黎明期は、実はかなりその状態に近かった。そして、そのまま行けばその理想へ近づくと思われた。その時期にネットに関わっていた方々は、懐かしく思い出されるのではないだろうか。「古き良き時代」と。


 が、しかし、インターネット人口が増えるにつれ、きつい言い方をすれば「民度が下がり」セキュリティというものが必要になった。そして、何よりもインフラを維持するのにはお金が、つまりは資本力が必要だった。

 故に「全ての情報がリンクした」はほぼ保たれたものの、分散化からは程遠い、一極集中の時代に変遷した。紙と電波だけだった頃に比べれば、多少なりともP2P的情報やりとりがされてはいるものの、結局のところ世の中を動かすのは資本力を持ったところが放つ情報が中心だった。


 ここで余談だが、インターネット黎明期に立ち上がっているネット系ベンチャーというのは、総じてクリエイティブ系のものが多い。WEBで世の中が変わるかもしれないと飛びついた、ある意味理想を追い求めるもの達の集団だ。

 その後、結局のところ一極集中に落ち着きかけ、所詮は資本力がモノを言う様になる兆しが見えた時代に立ち上がったベンチャーは、ビジネス的、まあ言ってしまえば金儲け的色合いが濃い(まあ、ライブドアなんかがいい例だろう。ちなみに個人的に堀江さんは好きでも嫌いでもない)。


 話がそれたが、一般的に「何かわからない動きが発生している」というものほど怖いものはない。よって、資本を持ちえた者たちは「自分の手の平内で制御された動きしか出来ない」ようなサービスを提供したり、何かしらかのフィルターをかけることにより「顔の見える生活者達」をこぞって集めて管理しようとした。

 そして実際のところ、そんなサービスが思いのほか使い勝手がよく、楽チンだったこともあり、多くの人たちが一極集中サービスをこだわりなく使い、それがまた人を呼び、一極集中状態がどんどん極まっていった。


 しかしここに来て、こと日本で言えば2chをはじめとする匿名掲示板文化、特定の企業管理下に置かれないファイル交換Winny、ユーザー達が作り上げるナレッジのWikiはてな、企業が提供する会員ではなく、自由につながるSNS、そしてリンクの拡がりを爆発的に期待できるブログ........などなど、一極集中ではない形態が、徐々に徐々に広まりつつある。

 そしてこのままWEBは大きく変化し、企業WEBの存在のあり方も変えていき、それこそがWEB2.0の時代なのだ、と多くの人は言っている。



 そうだろうか?



 企業は、企業であり続ける限り、つまりは世の中に対しての責任を負い続ける限り、そして企業体というものを守らなくてはいけない責を持ち続ける限り、一極集中的な情報展開は変えることが出来ない。

 どんなことがあっても、企業サイトと勝手サイトの2つが両立する状態は変わらない。勝手サイトのほうが、世の中的人気を勝ち得ることがあっても、それでも企業サイトは変わらない。


 そしてまた、WEB上で展開されるサービスもまた、一極集中による会員管理、そしてその会員をバーターとしたビジネス(バナーであったり、マーケティングパネルとしての提供であったりまあ色々だろうが)を変える事はない。

 一般ユーザーが何か爆発的に人気を博すサービスを広く提供したとしても、それはそれとしてまた別の優れたサービスを開発し続けるのみであろう。



 何かが変わっていくとしたら、それは比率だろう。一極集中管理下にあるものと、実態捕捉の難しいP2P的なものの比率。

 そしてその変化が生み出すものは、トップダウン的な世の中の把握しづらさだ。メーカーにとってはマーケティングデータが、マスコミにとっては世論が。まるでステルスのような、レーダーに引っかからない情報や人間がの比率が増えるだろう。



 しかし、これはWEBの変化ではない。社会の変化だ。社会の変化自体は、まあ徐々に変遷するとしてもドラスティックであるといえると思う。マスコミュニケーションや、マスマーケティングが効きにくくなる時代だ(ちなみに完全に効かなくなる時代は来ないと思う、私見だが)。

 そしていつか振り返って「あの頃が実はターニングポイントだった」と、時代の線が引かれるのだと思う。



 実は私は、多くの人たちが語るWEB2.0は、この社会変化のことを言っているのではないかと捉えている。そして、社会変化であるが故に、WEBのどのコミュニティやどの活動やどのシステムの開発が促進するのかを明確に定義できない。

 さらには、その社会変化のレベルも人によってまちまち、つまりゴール設定も人によって違うから、ますます明確に定義できない。


 だから、WEB2.0論は混乱している、と私は思う。




 故に、WEB2.0論というものをナンセンスだなあと思っている自分がいたりする。

 WEB黎明期に存在した人たちが心の中で掲げた各々の社会的理想に、ちょっとづつちょっとづつ近づいている、そんな夢物語をWEB技術やコンテンツ内容で語ろうなんてそんななんて味気のない。


 WEBが爆発的に普及したのは、ある特定の技術でもコンテンツでもサービスでもなんでもない。ぶっちゃけ、パソコンの値段が下がったからだ。そして、メールが便利だったからだ。

 だから変わるのはWEBではない。人が変わり、社会が変わるのであり、だから敢えて名付けるのであれば「次世代情報化社会」ぐらいの感じで(笑)。





 でもまあ、あながち間違ったことを言ってはいないと思いますよ?






 とはいえ、世の中的にどうしてもそれをWEB2.0と呼ぶのであればそれはそれ。そして私の考えるWEB2.0は「マスでは世の中を捉え辛くなる時代」のこと。そんな感じの結論で、いかがでしょうか。