団塊ジュニアとコギャル世代のかぶったあたり

会社のマーケティングの部署の偉い人(略しすぎ)が、寺島実郎さんの講演を聞いたらしく「あの人は素晴らしく頭が切れるね!俺は久しぶりに感動してメモとっちゃったよ!メモとったのなんて何年ぶりだろう!」と、ものすごい勢いで語りかけられた。そしてそのメモを記した「感動ノート(勝手に命名)」をパラパラとめくりながら、打ち合わせのついでにプラス1時間、その講演内容について雑談していた.......



そもそも講演のテーマは「2007年問題」の話だったそうなのだが、その中で一番「なるほど」と思いメモをとらせるに至ったのは、団塊ジュニア世代以降のていたらくについてを語った内容で

団塊の世代の最大の失敗は、「個人主義」と「私生活主義」を取り違えたことにある。

個人主義と言うのはあくまで社会に対して責任が負えるということが前提条件にある。今の日本人がいう個人主義は、個人主義でもなんでもなく私生活主義でしかない。それを取り違え、子供の私生活に口を挟まず育ててしまった結果が、今の日本の現状である。

これは確かになるほど、と思ったのだった。


私は1976年生まれ、団塊ジュニア世代の最後にカウントされる事も、コギャル世代の最初にカウントされる事もある世代である。


私の家は父親と母親が12歳も歳が離れており、母親はまさに団塊の世代なのだが、父親は戦前生まれで、しかも戦争の記憶がしっかりと持っている。ゆえに時折、いやかなり非常に頻繁に世代格差による家庭内論理のかい離が発生していた。ただ、父親が絶対権力者である状況だったので、基本的には父親の考えが家庭方針として採用されていた。


それゆえに、「自分の友人は団塊世代の親による家庭内論理で育てられている」のに対し、「どうも自分だけ戦前の日本が持ちえていた論理で育てられている」状態ゆえに、友人とのコミュニケーションに支障をきたすことが時折発生していた。


それは「○○ちゃんは友達の家のお泊り会に行っていいのにわたしはダメと言われる」とか「自分だけ門限が異常に早い」とか「自分が接触するコンテンツや人間に事細かに口を出され、時に禁止される」などといった現象がわかりやすいのであるが、とにかく「周りの友人達は、非常に自由なのに自分だけが妙に規制を受け、拘束されている」という印象が否めなかった。



そしてことあるごとに「最近は放任主義だ何だといって、その自由さがカッコイイ様に思われているけれども、それは絶対うわべだけのよさで、絶対正しくないと僕は思う。他の家は他の家、うちはうちで、世の中に流される事を良しとしないから、ダメなものはダメとはっきりいうからそれにはちゃんと従いなさい。ただし、従えない思ったら、反対する理由はちゃんと聞く。ただし、納得できなければ認めないからね」ともう、呪文のように繰り返されていたのを思い出す。



さらには、モノツクリであるがゆえの個人主義の父親は「社会で生きるということの基本は、まず人に迷惑をかけずに1人で立つ事が出来ることで、そのあとに色々能力などが加わってくるものだ。君はまだ若いから、うわっつらの華々しい能力に目を惹かれがちかもしれないが、まずは生きていく為の基本をしっかりし、自己責任で生きられるようになりなさい。ただし、少なくとも今の君はそれが出来るとは到底思えないから僕の管理下に置く。」とも畳み掛けられるのが常だった。




もう、コレを1週間に2回ぐらいのペースで聞かされる身としてはたまったものではなく、周りの友人達は学生生活をエンジョイしているのに、何と私は不遇である事か、と思えてならなかった。




しかし、今になってその寺島さんの講演内容と照らし合わせてみると、まさにその「団塊世代がもたらした教育」と「それ以前に日本が持ちえていた教育」を身を持って体験していたのである。まさに、私の周りは「私生活主義」による教育をされた人たちだったのだ。そりゃあ、親たちの個人差という以上に、自分だけ置かれている状況が違う気がするはずである。


とはいえ、私の周りにいる同世代の人たちは、非常に優秀かつしっかりしている人達が多いので「最近の若者若者っていうけど、そんなに酷いかねえ?」などと思えてならない。しかし仕事上、同世代或いはそれより下の世代のリサーチのインタビューなどを見ていると「コイツ本当に大丈夫なのか」と愁う、というよりもはや愕然とするぐらいの社会生活能力を披露していることがよくある。そう言った話を同世代にすると「ああいるいる、そういうの同級生に。普通ジャン?」ぐらいの反応が戻ってきたりするので、私の環境が恵まれているだけなのかもしれないが。



だから、日本はこのままでは駄目になって行くと警鐘を鳴らす上の世代の心配は、杞憂ではないのだろう。


ただし、安易に昔を礼賛する方向に行ってしまうのは誤りであると思うし、それは無駄な反発を生むだけのような気がする。今がダメだから戻る、のではなく、今はダメだけど将来よくなるにはどうすれば良いか、を考えることが必要だ。



戦前の日本が持ちえていたものと、その後蔓延した「私生活主義と取り違えられた個人主義」のどちらがいいというわけではないと思う。戦前モノにも悪い所は有るし、それ以降のものにも悪い所と良い所が有るだろう。但しおそらく「足りないもの」があるはずで、それがおそらく問題にするべきところだ。



ただ、こんなことを書きながらも如何せん、私自身はどうすればいいのか茫洋とするばかりでちっともわからないままなのだ。そして、自分が幸運にもきちんとした個人主義を叩き込まれたことは感謝しつつも、だから何だと感じるだけである。別に何に勝るわけでもないだろう。逆に、いわゆる現代的なノリやスタンスから来るコミュニケーション能力が明らかに欠けている自分に、日々落胆する事も多いわけであるし。


そしてふと、生まれたときから私生活主義で育てられ、しかもそれを個人主義だと思っている世代に、果たしてその違いを判る事は出来るのだろうかと考えてしまうのである。案外、生まれたときから染み付いた感覚と違うものと言うのは理解できないものである。現に小学校から高校ぐらいまでの間「こへだちゃんちはおかしいよ」と今まで何回言われた事か。理解できない人に、反発されないように変わっていってもらう、と言うのは可能なのだろうか?




それにしても、こんな話を昼間っから会社で1時間も延々とするとは思わなかった................(笑)。つくづく妙な会社だと時々思う。